スマートフォンを片手に、世界中のスポーツの試合結果に賭ける。近年、若者を中心に急速に拡大するオンラインスポーツベッティング市場。この世界的潮流の起爆剤となったのが、2018年にアメリカで下された一つの歴史的な最高裁判決です。かつてスポーツ賭博を連邦レベルで厳しく制限していた「PASPA法」が、なぜ覆されたのか。本記事では、この一大転換点の背景を紐解き、全米に巨大市場を誕生させた判決の衝撃と、その後の展望について解説します。
本記事のポイント
- 憲法違反という判断: PASPA法廃止の決め手は、連邦政府による「州の主権」侵害という憲法上の判断だった。
- 全米規模での市場解放: 判決を機に「合法化ドミノ」が発生し、世界有数の巨大スポーツベッティング市場が誕生した。
- 新たな機会と社会的課題: 経済的な恩恵の裏で、ギャンブル依存症やスポーツの公正性といった新たな課題が浮上している。
米国スポーツ賭博を25年間封じた「PASPA法」とは何か?
1992年、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領(当時)の署名によって成立したPASPA(プロ・アマスポーツ保護法)は、米国のスポーツ賭博を事実上、ネバダ州などのごく一部の例外を除き、連邦レベルで禁止する法律でした。
その背景には、スポーツ賭博の拡大が八百長などの不正行為を誘発し、競技のインテグリティ(高潔性)を損なうという強い懸念がありました。NFL、NBA、MLBといった主要プロスポーツリーグやNCAA(全米大学体育協会)も、この法律の強力な支持者でした。元NBA選手で上院議員だったビル・ブラッドリー氏が法案を主導したことから、「ブラッドリー法」とも呼ばれています。
この法律により、各州が独自にスポーツ賭博を合法化する道は閉ざされ、米国の巨大な潜在市場は四半世紀にわたり眠り続けることになったのです。
歴史的転換点:最高裁はなぜPASPA法を覆したのか?
風穴を開けたのは、カジノ産業の立て直しを図るニュージャージー州でした。同州は州民投票を経てスポーツ賭博を合法化する州法を制定。しかし、これをPASPA法違反としてスポーツリーグ側が提訴し、法廷闘争は連邦最高裁判所まで持ち込まれました。
そして2018年5月14日、最高裁は6対3で「PASPA法は違憲」との歴史的判決を下します。
その核心にあったのは、ギャンブルの是非ではなく、「反指揮権の原則(anti-commandeering doctrine)」という憲法上の理念でした。判決は「連邦政府が、州政府に対して特定分野の行為を禁止するよう法律で指揮・命令することは、州の主権を侵害するものであり、合衆国憲法に違反する」と結論付けました。つまり、スポーツ賭博を認めるか否かは、連邦政府が決めることではなく、各州が自ら判断すべき問題である、と明確に示したのです。
判決が解き放った巨大市場とその影響
この判決は、堰を切ったように全米各州での合法化ラッシュを引き起こしました。全米ゲーミング協会によれば、現在までにワシントンD.C.を含む30以上の州でスポーツ賭博が合法化され、米国は世界最大級の合法市場へと変貌を遂げています。
この変化は、社会の各方面に大きな影響を与えました。
- 州政府: ライセンス料や税収は、教育やインフラ整備などに充てられる貴重な新財源となっています。
- スポーツ界: かつて賭博に否定的だったリーグやチームは、今やベッティング企業と公式パートナーシップを結び、新たな収益源とファンエンゲージメントの機会として積極的に活用しています。
- メディア: 試合中継やスポーツニュースでは、オッズやベッティング関連情報が当たり前のように提供されるようになりました。
今後の展望と残された課題
PASPA法廃止が米国のスポーツ・エンターテインメントに巨大な経済効果をもたらしたことは間違いありません。市場は今後も拡大を続けるとみられており、テクノロジーの進化と共に新たなベッティング体験も生まれてくるでしょう。
しかしその一方で、光が強ければ影もまた濃くなります。手軽さゆえのギャンブル依存症の増加、特に若年層への影響は深刻な社会的懸念です。また、インサイダー情報を用いた不正賭博や八百長の防止など、スポーツの公正性をいかに担保していくかという課題も常に存在します。
各州は、相談窓口の設置や啓発キャンペーン、不正監視体制の強化といった対策を講じていますが、市場の成長スピードに規制や対策が追いついているとは言えないのが現状です。
PASPA法廃止という歴史的判決から数年が経過し、米国社会はスポーツベッティングとの新たな共存の形を模索しています。この巨大市場が今後どのような未来を描くのか、その動向から目が離せません。
Text and Image: JGP